シューマンはブラームスに多大な影響を与えた人物。
1953年、ブラームスはデュッセルドルフにおいてようやく対面します。
ライン河沿いの徒歩旅行
ダイヒマンとの出会い
1853年6月からゲッティンゲンに滞在していたブラームスは、8月下旬、ライン河沿いの徒歩旅行に出ました。
この途中、ボン市内のメーレムで銀行家のダイヒマンと知り合います。
ダイヒマンはシューマン作品の熱烈な支持者。
ブラームスはメーレムに滞在している間、シューマンの作品を深く知っていきます。
皆がブラームスに「シューマンに会え」って言う
ゲッティンゲンで共に過ごしたヨアヒムは、ブラームスにシューマン家訪問を勧めていました。ヨアヒムはライプツィヒにいた頃シューマン夫妻から高く評価されていたし、ヨアヒムもまたシューマンの音楽を深く敬愛していたからです。
なのでヨアヒムは、ボンで指揮者&ヴァイオリニストとして活動中のヴィルヘルム・ヨーゼフ・ヴァジェレフスキを訪問するようにと、ブラームスに紹介状を持参させました。
ヴァジェレフスキはシューマンのお友達で、シューマンの最初の伝記作者でもあり、シューマンの身近な人の記録を残している人でもあり、さらには音楽学者として優れた研究を残した著名な人でもあります。
ヴァジェレフスキもまた、ブラームスにシューマン家訪問を強く勧めますが、ブラームスはあまり乗り気ではないようだったとヴァジェレフスキは書き残しています。
でもブラームスとしては、1850年にシューマンから楽譜を突き返された経験から、一歩踏み出すことを躊躇していたようです。
それでもヴァジェレフスキの説得が効き、ブラームスはデュッセルドルフのシューマン家訪問を決心したのでした。
1853年9月30日、ブラームス&シューマンご対面
デュッセルドルフのシューマンハウス
ブラームスはデュッセルドルフのシューマン家の扉を叩きました。
どの扉かはわかりませんが、この時シューマンが住んでいた家がデュッセルドルフに今も残されています。
2012年5月に撮影してきました。
シューマンハウスにブラームスをシューマンハウスで最初に出迎えたのは、シューマン家長女のマリーだったようです。
当時43歳だったシューマンはブラームスを優しく迎え入れ、彼をピアノの前に案内。
ブラームスは、ピアノ・ソナタ第一番を演奏し、シューマン夫妻はこれに深く感動しました。ローベルト&クララどちらもその感動を日記などに書き残していて、ブラームスを大絶賛しています。
さすがブラームス。
この時のシューマン夫妻との出会いが、ブラームスのその後の人生を決定づけたのは有名なお話。
初対面から2週間後にあたる10月中旬には、シューマンは自身が創刊した『音楽新報』に掲載するブラームスの紹介記事「新しい道」を執筆していたと考えられています。この記事は同誌10月28日号に載りドイツ全土で読まれ、大きな反響を巻き起こしたのでした。
デュッセルドルフのシューマンハウスに行くには
デュッセルドルフのシューマンハウスは現在、シューマン協会の拠点になっています。
デュッセルドルフ中央駅からは歩いて20分ちょっとくらい。
Uバーンで近くまで行けますが、たいした距離ではないので、せっかくだからデュッセルドルフの街中を歩きながら、色々なものを見たり聴いたり五感をフルに使って歩いていくのがお勧めです。
シューマンハウスのすぐ近くにハインリッヒ・ハイネの研究所(のようなもの?)があって、周囲の人はシューマン協会よりもそちらの方を知っているような印象がありました。
もしわかりにくくて人に道を尋ねとしたら、「シューマンハウスはどこ?」でわかってもらえい場合には、「ハインリッヒハイネの記念館はどこ?」と聞いてみるといいかもしれません。
雑感というか妄想
シューマンがブラームスに寄せた期待がとても大きかったことが、ブラームスにとっては良かったのか悪かったのか?シューマンはブラームスが音楽家として認められる道を開いたけれども、ブラームスの交響曲が4つしかないことが少し残念だと常々思っている私としては、シューマンプレッシャーが大きかったせいかとか妄想して時々悶々とします。でも4つの交響曲はどれも素晴らしいから、やっぱりなるようになったのかとも思うのです。
1953年の1か月ちょっとの滞在中に
ブラームスはシューマン家に入り浸り
ブラームスはデュッセルドルフに11月3日までの1か月ちょっとの間滞在しました。
シューマン家を毎日のように訪問、すっかり溶け込んでシューマン家で演奏したり、一緒にご飯を食べたりしています。ローベルトにとってブラームスは創作意欲をかきたててくれる存在だったようです。
ブラームスはハンガリー風の民謡も弾いていて、この時既にハンガリー風の音楽を自分のレパートリーとしていたことがうかがえます。
「F-A-Eソナタ」の作曲
この滞在の間の1853年10月、シューマン指揮の演奏会に出演するためにヨアヒムがデュッセルドルフにやってきたとき、シューマンの発案で「F-A-Eソナタ」が作られました。
シューマン、アルバート・ディートリヒ、ブラームスの3人の連作となるこの作品は、ヨアヒムの座右の銘「自由に、しかし孤独で frei, aber einsam」の頭文字を主題としたソナタ。「敬愛する友人(Freund)ヨアヒムの到着(Ankunft)を期待(Erwartung)して」の意味も込めてヨアヒムに献呈されたのでした。
夢のような光景!
想像しただけで興奮でめまいがします。
ブラームスの作品の出版
シューマンはブラームスの作品を出版して世に送り出そうとします。
シューマンの友人ヘルテルはライプツィヒでブライトコプフとともに出版業を営んでいたので、シューマンはヘルテルにブラームスの作品出版を依頼しました。
シューマンには批評家として影響力があるので、シューマンの紹介や後ろ盾をもって出版できればブラームスとしては有利ですが、
せっかちなのか?
その後の自分の運命を無意識の中で察していたのか?
慎重なブラームスとしてはめまいを覚えるほどの性急さだったようです。
この後、ブラームスは自作品出版のためライプツィヒを訪れます。
そして、ブラームスがシューマンと初めて対面してから半年も経たないうちにシューマンは投身自殺未遂。
ブラームスはそれをきっかけに再びこの地に戻るのでした。
シューマンの投身自殺未遂事件
1854年2月に入るとシューマンの病状は危機的になり、幻聴や幻覚にさいなまれるようになりました。天使の声を聴き取ろうとしてもそれは悪魔の声に変わってしまい、2月27日謝肉祭の日に、発作的にライン河に身を投げてしまったのでした。
3月4日、シューマンはボンのエンデニヒにある保護施設に収容されます。
ちなみにクララはこの時妊娠中で、3か月後の6月に出産しました。ブラームスはこの子の名付け親となり、フェーリクスと命名。25歳で早世してしまいますが、このフェーリクスにはことのほか強い愛情を持っていたとされています。
ブラームスのデュッセルドルフ再訪、再滞在
ヨアヒムは『ケルン新聞』でこの事件を知り、ブラームスらはすぐにデュッセルドルフに駆け付けました。
ブラームスは自由な身分だったので、しばらくデュッセルドルフに滞在し、シューマン家のお世話をすることに。3月3日にはデュッセルドルフに住まいを求めています。
シューマン家では主に家計簿付けを行うなどして家政に協力しました。出版社からの収入、召使の賃金、子供たちの授業料などの記載を、2月から同年12月30日まで行っています。
その間、8月には友人のグリムとライン川沿いの旅行をしたり、11月にはクララのハンブルクでの演奏会に同行したりしたのでした。
ブラームスはクララが大好きで・・
自らの就職活動を犠牲にしてシューマン家に再び入り浸っているブラームスの境遇をブラームスママ・クリスティアーネは心配しますが、ブラームスは耳を貸しませんでした。
シューマン家に住み込んで、クララの良き相談相手となりながら、ブラームスは叶わぬ恋心を募らせていたのですね、切ないです。
それでも、音楽面でも大先輩で超有名人のクララからは、教えられる点が多々あったことでしょう。
また、人生の若い年月を自分のために犠牲にした大切な友人ブラームスに対して、感謝の念を終生忘れないようにと、クララは子供たちに遺言を残したのでした。
それにしても、亡くなってから100年以上経つのに、21歳の頃に募らせた恩人の奥さんに対する恋心について、見ず知らずの極東のアマチュアバヨリン弾きにあれこれ書かれるってどうよ・・と多少申し訳なく思うのですが、それもこれもブラームスへの愛ゆえです。許してね、ヨハネス♥
1854年の作品
ブラームスはこの年、ベートーヴェンの交響曲第9番を初めて聞いたようです。
そして、ほとんどデュッセルドルフにいたこの年の作品は、以下の3つ。
特に「シューマンの主題による変奏曲」はブラームスとシューマン家の親密な交流の上に生まれた曲と言え、なかなかに感慨深い作品です。
ピアノ三重奏曲(ピアノトリオ)第一番 Op.8
シューマンの主題による変奏曲 Op.9
バラード集 Op.10
https://www.youtube.com/watch?v=gECYL1-BEmc
デュッセルドルフに泊まるなら
私は2012年にデュッセルドルフを訪れ2泊しました。次回また訪れる機会があれば、できれば1週間くらい滞在したいと思っています。
【ホテルズコンバインド】で見てみたら、デュッセルドルフのホテルは150軒ほどありました。
前回はデュッセルドルフに行く直前、ハンブルク滞在中にエクスペディアで普通に予約しましたが、次回は予約サイトを複数比較できるホテルズコンバインドで検索して、もっとお得に泊まりたいです。